この映画に携わった「全て」の方々へ
猛暑の中、撮影大変お疲れ様でした。
片岡です。
二日前、深夜の東名高速突っ走って、助監督の徳山と共に東京に戻りました。
東京に着いた時、
徳山:「監督!監督!東京です!東京です!(泣笑)」
と、まるで、戦争が終わって帰還した若い兵隊さんみたいでしたw
ただただ必死で、ご迷惑をおかけしてしまった、不愉快な思いをさせてしまった方々には大変申し訳なく思っております。
撮影が終わっても一週間は残務をこなそうと残っていましたが、源次郎小屋の撤去作業に携われなかった事だけ悔いが残ります。
撮影終わってすぐ「バイバイ、後の事は宜しくね」だけはしたくなかったんです。
今回の撮影には、色々な思い出とドラマがありましたが、
一番印象的だったのは、みんなが「笑顔で一生懸命」だった事です。
「凄い映画を作るんだ」という一つの目標に向かって、一丸となって一生懸命取り組む心地良さを皆さんと共有していました。
「本気になる」
人が「本気」になるとどうなるか?その変貌ぶりを目の当たりにしてました。
「手を抜くか?徹底的にやるか?どちらか選ぶなら、後者を取る」この映画に関わった人々は、妥協を許さず、最高の物しか受け入れない人達だったと思います。
それは、庵治・牟礼の石工、映画の役者・スタッフ全員が持っていた「スピリッツ」だと思っています。
前に、ストーンマンさんとこんな話をした事があります。
「庵治石の石工は、最高級の石を扱っている。だから物作りに対する意識が高いんだ。普段35ミリフィルムという高価なものを扱う映画屋もそれは同じです」
作っているものは違うけど「精神」においては同じものを持っていたから成し遂げられた撮影だったと思ってます。
現場では色々問題が起こり、苦闘の日々が続いてましたが・・・灼熱の丁場で、写真の通りみんなが笑顔、映画のクランクアップが近づくに連れて、笑顔が増えて行った気がします。
先にアップし、この場にいなかった村井さんや他の役者さんたち、地元の方々ともみんなで一緒に写真を撮りたかったです・・・
庵治・牟礼を去る時「まだもう少しだけいたい」と思っていたのが本音です。
10月に何度か庵治・牟礼に戻る予定はあり、冬に松山さんの家で猪鍋をごちそうになる約束をしているものの、でもやっぱりもう少しいたいな、と思ってました。
庵治・牟礼の歴史は、石工の町として、イサムノグチさんなど多くの芸術家を迎え入れ、そして今、我々の世代は「この地で、第七芸術「映画」を作った』
「我々の世代は、映画を作ったんだ」
これから庵治・牟礼を背負って立つ次世代に、胸を張って言える、残せるものを、製作総指揮の大久保さんを筆頭に「みんな」で作ったと思ってます。
しかし
映画は、ここからやっと折り返し地点となります。
暗い部屋で黙々と行って行くマラソンのような編集作業。
音楽、音響・音効、カラコレ、デジタル処理・・・他多数。
完成後、この映画を日本中、そして最終目標である「世界」へ届けるための宣伝・配給。
やる事はまだまだ山積みです。
大久保さんと初めてお会いした時に約束した通り、
今年5月、水仙のおかみさんから「庵治・牟礼を宜しくお願いします」と気持ちのこもったお願いを承り約束した通り、
僕のモチベーションはただ一つ。
この土地を描いた、多くの人々の心、「魂」が宿ったこの映画を、
「世界」へと発信する。
はーーーーーーーぁーーーーーーーーーー集合写真に俺がいない!!!!!!!!!!!!!ちくしょーーーーーぐれてやるーーーーーー!!!
次会う時、一緒に写真撮ろう。
病欠写真でええんちゃうん?
病欠写真とか、プレミア上映会とか、また集まる機会で埋めて行きたいですねー!